「戦国時代、難攻不落の『玉縄城』に思う」
私の家から徒歩8分にJR大船駅がある。その駅から西へ約1.5kmに
清泉女学院あり、そのそばに玉縄城址がある。
この玉縄城はいまから約500年前(1513年)に小田原城主である北条早雲が建てた城である。
北条早雲は当時、扇谷上杉方の最大勢力である三浦義同を三浦半島の新井城
に籠らせたが、この新井城への抑えと補給・援軍を遮断するため、三浦半島の付け根に位置する玉縄城を築いた。
この城は土塁で固めた擂鉢状の本丸の周囲には深い空堀がめぐらされ、四方に曲輪を配置。さらに外堀を柏尾川と直結させることで、江の島から相模湾に舟を出せた。
その後、三浦氏は滅亡。つづいて、安房から里見氏の軍勢が渡海、鎌倉を攻め鶴岡八幡宮などを焼いたが、当時の玉縄城主北条氏時が柏尾川畔で防戦した。
1561年には上杉謙信が小田原城攻めと同時に玉縄城も包囲したが、守りが固く、囲みを解き越後へ引き揚げた。武田信玄の小田原城包囲戦の際には、玉縄城は避けて素通りしている。
豊臣秀吉の小田原攻めの際には、徳川家康が玉縄城主北条氏勝を説得。降伏開城し、氏勝は北条方の諸城に降伏を呼びかける使者となった。
徳川家康側近の本多正信が玉縄に一万石を得て大名となり、それが幕藩体制での玉縄藩となる。
1703年に三代目の松平正久が上総の国大喜多へ転封となり、玉縄は廃城・廃藩となった。
城作りの名人と言われた北条早雲は玉縄という土地・地形・川・堀・曲輪などを駆使し難攻不落の城を築いた感性に驚かされました。
城作り名人は他にも豊臣秀吉、加藤清正、黒田官兵衛、藤堂高虎などがあげられるが、いづれも土木・治水に長けているという共通点と戦術・戦略のうまさも共通していると思う。
歴史から色々なことを学ばさられますね。これからもこんな感じで記載させていただきます。
コーディネーター 永野 正